九州は多種多様な陶磁器の産地である。中でも有田焼の産地である有田市周辺には、波佐見焼、肥前吉田焼など磁器の産地が集結している。
その中の1つに三川内(みかわち)焼という長崎県佐世保市を産地とする磁器がある。白い素地に唐子文様をはじめとする多種多様な絵付けが施された器はまるで真っ白のキャンバスに描かれた絵画のようだ。その他にも透かし彫りと呼ばれる技法などその緻密で繊細な装飾が1つの特徴となっているのは三川内焼が藩の御用窯として盛えたからなのだろうか。三川内焼の装飾から装飾技術の発展と継承という視点からう三川内焼とはどのような焼き物なのかをみていく。
筆を使った装飾
三川内焼の筆を用いた装飾である「染付(そめつけ)」について。三川内焼の染付は、日本画の屏風絵やふすま絵のような雰囲気を持っている。「平戸藩の絵師が三川内焼の陶工たちに日本画の絵図を渡した」と記録があることから三川内焼の陶工たちは日本画の技術を高度に習得していたと考えられる。果たして筆を用いて描かれる繊細な装飾は一体どのようなものなのだろうか。
水墨画のような「染付」
私が三川内焼を知った時に絵画みたいだなと感じたのは「染付」を知ったからである。他の産地では同じ絵柄を何度も繰り返し描いていく中で自然と変形や省略が起こり一つの文様パターンとして定着することが多い。しかし、三川内焼は図案の変形や省略がされることはなく真っ白の磁器に一筆ずつ筆を使って描いていく。
三川内焼の染付には「濃み(だみ)」と呼ばれる線で描かれた絵に色やぼかしを加えたりする工程がある。濃いところと薄いところが濃淡をつけることで立体感や遠近感を表現する濃みの工程は三川内焼の一つの特徴といえる。
素焼きした器に呉須(ごす)という焼くと青く発色する顔料をふくんだ細い筆で絵を描き、たっぷりと水でうすくといた呉須をふくんだ太い筆で濃淡を作り出す三川内焼の染付はまるで水墨画を描いているようだ。
特徴的な文様
三川内焼では代表的な「唐子(からこ)」と呼ばれる子どもが遊ぶ様子を表現したもや、山水文という山と水を合わせた自然風景、龍や獅子、花や鳥などが描かれる。これらは中国から輸入された絵画や中国の磁器を模倣して作られた背景がある。また全体的に中国風な印象を受けるのは、江戸時代初期に中国の混乱期に中国で焼き物が作れなくなり日本で代わりに作っていた時期があったことと磁器の発祥が中国であることを伝えているためと言われている。
唐子
松の木のしたで蝶と遊ぶ子どもたちの絵、「唐子(からこ)」。三川内焼で描かれる代表的な文様である。多くの男児に恵まれることが幸福の象徴とされていた中国で、唐子は幸せや繁栄を表す図案として生まれた。三川内焼で描かれるようになったのは平戸藩の絵師であった田中与兵衛尚俊が描くようになったという説が一般的であるが、朝鮮から渡来した人々が故郷を懐かしく想い描いていたという説もあるようだ。
この唐子、描かれる男児の数は、3人、5人、7人と奇数であることが多くそれぞれの人数に意味合いがあるという。7人が最上で献上品、5人が大名への贈答品、3人が庶民が使うもの、というように厳格な区別があった。
現在では唐子の描かれ方は多様化しており、つくり手ごとに個性が加えられ多くの親しみやすい唐子が描かれている。
筆を使わない装飾
三川内焼の装飾は筆を使うだけではない。細工物(さいくもの)と呼ばれ、筆を使わずに器をくり抜いたり、切り起こしたりする装飾もある。代表的な装飾に「透かし彫り」「菊花飾細工」がある。
透かし彫り
籠の編み目のように穴があいた装飾。器の表面一部を細かくくり抜いて作っていくのだが、器の素地が半乾きの状態でくり抜いていくため、1つ1くり抜くたびに不安定にな状態になるのだが全体のバランスを見ながら慎重に進めていく。透かし彫りの技法を用いて主に香炉や灯りが作られた。
菊花飾細工(きっかしょくざいく)
土のかたまりを切り出して菊の花を表現したパーツづくり。このパーツを磁器に貼りつけて装飾する。花びらをつけたように見えるが、土のかたまりから先が細い竹べらを使い付け根をきらないように花びらの形に一枚ずつ切りだして起こしていく。中央からスタートし何周もすることで菊の花の形が完成する。花瓶、蓋、壺などの装飾として貼りつけられる。
なぜ装飾で魅せることができるのか
三川内焼の装飾技術が発展した背景のひとつに平戸藩が三川内皿山という現在も窯元が集結している場所に、藩から命令を受けて陶磁器をつくる「御用窯(ごようがま)」を設置したことが挙げられる。その御用窯で陶磁器の細工を行なう人は藩から直接給料をもらっていたことで将軍家への献上用、天皇の居住しているところ専用の採算を度外視した生産を行なっていたという。
そのような効率を求めない生産を行い、御用窯として技術を追求していくなかで三川内独特の装飾技術が培われていったのである。
御用窯として発展した三川内焼だが廃藩置県により、三川内焼は一般人が日々の生活の中で使う器を焼く「民窯(みんよう)」となる。海外での日本の工芸ブームや万博などもあり評価され三川内焼は販路を拡大したが江戸時代から民窯として盛えた有田や伊万里の磁器の産地と市場で競うことは難しく三川内焼は衰退が進んでしまった。
しかし、三川内の裕福な農家の長男であった豊島政治(とよしませいじ)が技術の継承に危機感を覚え「三川内陶磁器意匠伝習所」という技術を継承する場所を設立した。形を変えながら昭和まで続いた伝習所は後継者への伝統技術の継承と新しい技術のとりいれを行なった。
こうした豊川政治の尽力を中心とした産地としての技術継承を行なったことで、三川内焼は現在でも昔ながらの装飾技法が続く磁器産地となっているのである。
参考資料
三川内陶磁器工業協同組合
中川政七商店の読みもの「三川内焼とは献上品として愛された技術の洗練」
『ながさき経済』(110)(470),長崎経済研究所,1998-11. 国立国会図書館デジタルコレクション
三川内焼 平戸光祥団右ヱ門窯 三川内焼の技法
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